説明責任時代に必要なのは圧力を内部改革に生かす手腕

説明責任時代に必要なのは圧力を内部改革に生かす手腕

(進研アド「Between」 2014年4-5月号 連載 どうする?説明責任と成果指標 より転載)

ポストセカンダリーアナリティクス 柳浦 猛(やなぎうら たけし)

大学にとって、教育成果を可視化し、エビデンスに基づく特色や強みを説明することは喫緊の課題である。アメリカでも客観的指標の開発は社会的重要課題であり、公平かつ的確な指標を模索してきた。かの地でIRコンサルタントとして大学支援に携わる筆者に、両国の状況の比較を交え、日本での課題解決の方向性を論じてもらう。

はじめに

近年、日本の高等教育界に対する情報公開の要求が強まりつつある。大学の基礎情報をウェブサイト上で一般公開する大学ポートレートが2014年度から本格稼動し、また、各大学は自らの教育成果を指標化して自学のウェブサイト上で積極的に公表することが求められている。社会に対する説明責任を果たすことが、国公私立を問わず、今後の大学経営者に課せられる一つの重要な責務となりつつある。

本連載では、アメリカと日本の説明責任の現状に関する共通点および差異を論じ、日本の大学が今後、この責任をどのように果たしていくべきか、考えてみたい。

評価指標に基づく連邦奨学金配分の議論

現在、アメリカでは、オバマ大統領が提唱する「カレッジ・レーティングス・システム」という高等教育政策の議論が進行している。これは、全ての大学を①教育機会拡大、②教育費用の抑制、③教育成果という3つの分野で評価し、それを基に連邦政府奨学金を配分するというものである。

現在、提案されている指標には、低所得者対象の連邦奨学金受給者の割合(前述①)、奨学金を差し引いた実質学費および学生ローン額(②)、卒業・編入率、卒業生の収入、修士以上の学位授与数(③)などが含まれる。大学選びの役に立つという受験生および市民の視点に立った情報公開を目的としているが、この政策案は高等教育界内外からさまざまな反応を引き起こしている。

一番の批判は当然ながら大学から起こっている。調査会社ギャロップ社によれば、調査した675大学の学長のうち65%が、これらの評価と奨学金配分を連結させることに反対の立場を取っている。反対者たちは、そもそもいくつかの指標のみに大学の業績を全て反映することはできないと主張し、この政策が施行されれば大学としてもその指標に注目せざるを得なくなるが、それが全ての大学にとって正しい方向であるとは限らないと指摘する。

一方、政府側は、大学の不安は理解できるものの、政府は年間15兆円にも上る奨学金を無条件で支払っており、何らかの評価システムがないほうが異常であると反論する。近年、大学の学費はインフレ率を上回る速度で上昇している。したがって、巨額の教育費を支払わなければならない人々にとって、適正な大学選びをするための信頼できる情報が必要不可欠であるという声も、主に市民団体や政策系第三者機関の関係者から聞かれる。

大学の業績を公正に評価することは高等教育の長年のテーマである。大学は企業と違い、利益の最大化が目的ではない。さらに、目的は一つではなく大学によって異なる。何より、多くの目的は数値化が不可能な類いのものである。このような複雑な組織をいかに公正かつ客観的に評価するのか?アメリカにおいてこのような議論は常に行われ、業績指標の開発を長年にわたって試行錯誤してきたし、その作業は今後も続くと言える。

日本でも、教育成果を評価して一般公開し、受験生の大学選びをサポートすべきだという動きが起こっている。大学ポートレートや教育成果の指標化と積極的な公開によって、社会、とりわけ受験生およびその家族への説明責任を果たすことが、大学の大きな役割の一つとなりつつある。日本の高等教育界の説明責任の歴史はまだ初期段階だといえ、今後、これをどう発展させるかが問われている。

第三者機関が教育政策に大きな影響力を発揮

アメリカは、日本よりも大学に説明責任の圧力をかけやすい社会状況にある。何より、日本と違って大学は州政府と連邦政府という2つの政府を同時に相手にしなければならない。高等教育政策の中心を担うのは連邦政府ではなく、直接的な機関支援を行う州政府である。

したがって、大学にとっては州政府への対応がまず第一であり、そのうえで連邦政府に対応する必要がある。州政府内には知り合いがいるケースもあり、地元の有力政治家に働きかけて影響を与えることもできる。一方で連邦政府への対応については、多くの大学にその余裕はないのが実情である。

アメリカでは、政府だけが大学に説明責任の圧力をかける存在ではない。政府や大学から財政的に独立した政策分析・提案機能を持つ機関が数多く存在し、第三者的な立場から積極的に高等教育政策の議論に関わっている。これらの組織は主に非営利であるが、教育に関心を持つ財団などから手厚いサポートを受けており、潤沢な資金源を持つ。彼らは政策への影響力は情報量に比例することを熟知しており、政策論議に積極的に参加するために一貫して情報公開を要求してきた。

ただし、これらの第三者機関の直接的な圧力の対象は基本的に政府である。政府が既に集めている膨大なデータを公表させるか、集めていないデータは政府に大学から集めさせ、それを公開させるという手法をとっている。

彼らは、公開されたデータをさまざまな観点で分析する中で独自の指標を考案し、大学間の比較分析を行ってきた。時には政府内でも行われていないような分析を加え、政府・大学関係者が無視できない情報を発信することもある。オバマ大統領が提案している先述の指標も政府が独自に開発したものではなく、第三者機関が過去に使用・提案してきた指標を参考にしている。

一方、日本では情報公開の圧力の対象は主に大学である。例えば、大学には独自の教育成果指標を開発し公表することが求められている。しかし、多くの大学の指標は経営改善目的の内向きの自己評価指標であり、それを公開したところで社会への説明責任を果たせるとは限らない。

指標が指標たるには、一般の人でも十分に理解でき、他大学との比較が可能でなければならない。そのためには大学間での指標の定義や名称の統一が不可欠だ。その意思統一がされないまま、各大学がそれぞれの指標を開示しても、受験生に役立つどころか、逆に混乱を招く可能性がある。

市民の声の実質的反映がなされない日本の政策

アメリカの第三者機関は時には大学と政府を仲介して意見を調整し、政府の行き過ぎを防ぐ役割も果たしている。カレッジ・レーティングス・システムに反対する大学と政府の間でもそれがなされている。連邦政府に対してさまざまな代替案を積極的に提示するなど、政府が無視できない影響力を発揮している。

翻って日本では、高等教育政策の議論は政府対大学の対決構図が常であり、業界内の論理や力関係がしばしば議論の中身や結論に影響を及ぼしてきた。その構図では、学生をはじめとする一般国民の声が健全に反映されてきたとは言い難い。中教審や各種委員会等には政府・大学以外の関係者も参加しているが、それだけでは国民の声を議論に反映させるには不十分である。学生や一般国民の発言力が弱いことは、今の日本の高等教育政策の根本的な問題である。

国民の声を高等教育政策に反映させるだけの影響力を持つ第三者機関が日本に少ないことは、健全な説明責任制度、特に受験生の大学選びに貢献するようなシステムを模索するにあたって、好ましい状態とは言えない。

日米の環境に共通する経済低迷と産業界の期待

アメリカで大学の説明責任が強調されるようになったのは、ここ20年か30年の話である。それ以前は、政府にとって高等教育は聖域ともいうべき存在で手出しをできず、予算も前年度ベースを踏襲するなど、遠慮がちな対応にとどまっていた。

それが変化し始めたのは、1980年代から1990年代初頭にかけてである。その大きな原因の一つは、経済の低迷である。第2次世界大戦後の経済発展に伴い高等教育も急速に拡大、大学への政府支出は常に右肩上がりであった。

しかし、日本をはじめとする当時の新興国の台頭に伴い経済成長が鈍化し出すと、それまでの大学支援政策を見直さざるを得なくなった。また、同時期に犯罪・貧困対策や医療、初・中等教育などの政策課題も増え、限られた財源を効率的に捻出することが求められ、政府は大学に財政支援を正当化するような説明を求め出した。

経済界の高等教育に対する不満の顕在化も、説明責任の議論と関係がある。アメリカが世界の工場ともいえる製造業中心の社会であった時代は、多くの市民は高校さえ卒業すれば工場に就職でき、働きながら仕事を覚え、中流階級レベルの給与を獲得することが可能であった。

しかし、経済成長の鈍化によって産業構造が変化して工場が次々と海外に移転し、ドラッカーの言う知識基盤社会が到来すると、高校卒業レベルでは対応できない職種が増加した。企業は、より高度なスキルを持つ大学卒業者を積極的に雇用し始めた。しかし、それによって、企業の期待するレベルの能力を有していない、名ばかりの「大学卒業者」が少なからず存在することも明らかになった。教育の質に対する批判が経済界から高まり、大学は社会に対する教育成果の明示を求められるようになった。

今の日本の状況は、この1980年代から1990年代初頭のアメリカと符合するところが少なくない。図表1は、過去30年間の日本政府の全支出額に対する高等教育関連の割合を示している。高等教育への支出の割合は微増減を繰り返しつつ3.1%から2.0%へと低下し、高等教育の相対的な優先順位の低下を示している。

また、2010年の日本のGDPに占める製造業の割合(19.6%)は、1980年代初頭のアメリカのそれとほぼ同じ水準である(図表2)。中国やその他発展途上国の台頭により、製造業以外の分野でも競争力強化が求められる日本経済において、高度なスキルを持った人材の需要は高まる一方である。最大の人材育成機関として大学の役割の重要性が増す中、大学教育への風当たりがさらに強くなることは、想像に難くない。

Between 2014 Apr-May Charts1&2

大学ポートレートは説明責任時代の第一歩

アメリカの辿った道を日本がそのまま歩むことになるとは限らないが、どのような方向に向かうにせよ、日本の高等教育に対する説明責任の圧力が今後、増大していくことは間違いない。その視点から鑑みると、大学ポートレートの導入は必然であり、到来する本格的な「説明責任時代」の第一歩にすぎない。

大学経営者は、自らの大学がその時代を生き残るための体力があるかどうかを問い直す必要がある。情報公開に頑なに反対するのではなく、その圧力を利用して内部改革を行っていくようなしたたかな手腕が求められている。

次回は、説明責任の圧力に対して、大学がどのような対策を講じていくべきかを考察してみたい。